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1970年代、アルゼンチンの沖合は世界に残された唯一の未開発大型漁場でした。断片的な調査を総合すると、資源量はイカ、メルルーサ・ハブシ、メルルーサ・アウストラリス、ミナミダラなど計1,000万トン。年間漁獲可能量はこの4種を中心に計300万トン。まさに“宝庫”でした。ところが、ここでは漁業は北部海域で細々と行われるだけで、1976年までの年間漁獲量は最高でも27万トンと、日本の50分の1に過ぎませんでした。パタゴニア地区と呼ばれる南緯40度からフエゴ島までの南部の水産資源は、ほとんど手付かずの状態でした。
流れが変わったのは1976年に発足したビデラ軍事政権の政策変更からです。政府は、国の経済立て直し政策の一環として『漁業開発促進構想』を打ち出しました。未開発地区と漁業資源の開発に外資を利用するため、外国企業に定着を前提とした試験操業を認める『国際入札法令』が公布されたのです。1977年の入札にはニッスイを幹事として大型遠洋トロール事業を営む大手5社による日本連合で参加、そのほかに7か国が参加し、日本と西ドイツが落札しました。日本連合は1978年から1年間、試験操業を行い、パタゴニア沖合の有望性を確認しました。
アルゼンチン政府の契約条件は、「パタゴニア地区に漁業基地、加工工場を建設、周辺のインフラを装備する。日本が700トン級の調査船を造り、アルゼンチン政府が購入するが、その資金の融資は日本がする」という内容でした。厳しい条件のもと、日本の各社は脱落、ニッスイだけが残ることになります。当時の担当者によれば、「政府は、嫌なら降りてもいいんだよ、という態度を見せましたが、本心はパタゴニアの開発をまかせたがっていました」。
定着基地として、他社がバルデス半島の湾の付け根にあるプエルトマドリン港を考える中、ニッスイは遥か南のプエルトデセアドに定めました。首都ブエノスアイレスから2,000キロ、天然の良港はなく、潮の干満差が10メートルもあります。1970年代後半の人口は2,500人。パタゴニアの開発を真剣に考えている政府がイエスという場所はそこしかない、とニッスイは考えたのです。1981年4月、ニッスイはここにペスパサ社を基地として設け、1984年2月に加工工場、冷蔵庫を完成させました。本社はブエノスアイレスに置きました。
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